「石鎚山ロープウェー」の道路標識にしたがって、国道から約20キロそれたところに、今宮道と黒川谷の2ルートの登山口が1キロほど離れて並んでいる。行きは、小松町側の黒川谷をたどることにした。
旧石鎚村は、1955年の合併で小松町の一部になり、その後人口が激減し、役場の支所も学校も農協も森林組合も郵便局もなくなった。合併当時千人余りいた人口は今は5人だけ。昭和の合併によって崩壊した典型的な山村だ。
朽ちかけた旧農協の駐車場に車を置き、登山口にとりつくと、「数カ所で崩壊しているため通行禁止」という小松町が掲げた看板がある。「通行禁止」という強圧的な物言いが気に入らない。何か隠したいものがあるのか? とかんぐってしまう。具体的に崩壊の個所や程度を書かない抽象的な表示は無視するに限る。危ないと思ったら引き返せばよいのだ。
正午出発。20分ほど杉の人工林をのぼっていくと、木が伐採されて日の当たる斜面にぽっかりと紫色の斑点がある白い花の群落があらわれた。シャガというアヤメの一種だという。毒々しさと寂びしさが妙に廃村に似合っている。
途中「石鉄山(「失」ではなく「夫」)」という石碑がある。「夫」が正しいのだが、パソコンではこの字はないから「鉄」で代用する。でも、愛媛県を明治の初期に「石鉄県」と呼んだことがあったのは、「失」と「夫」を間違えて表記したからだという。
さらに驚いたのは、真新しい金属製の、県が設置した「土砂崩壊個所」を示す看板だ。人っ子一人通らないこの道は「町道下黒川面河線」だという。町が「通行禁止」としたわけがようやくわかった。町道の崩壊で死者でも出たら、町に責任が生じるからだ。
30分ほどで黒川の集落に着いた。ロープウェーが開通する前は、シーズン中は30数軒の家が登山民宿になり、中学生は修学旅行の小遣いを稼ぐために土産物を売った。旧石鎚村では最大の集落だったという。4,5年前に最後の住民が山を下りて、今は朽ちた家と、段々畑跡の石垣が残るだけ。畑には杉や檜を植えたから、集落全体が真っ暗になってしまった。
集落をすぎ、登山口から2.5キロほど登ると、小さな谷をまたいだ。その谷を境にして天然林にかわった。間近で鳥がさえずり、虫の羽音が響き、新緑に太陽が照り映えて、急に生命が吹き込まれたような錯覚を覚える。
13時35分、ふと足元をみると、5枚の花びらをもつ菊のような葉の小さな花が群生している。標高800メートルほどだろうか。花の名前がわからないのはちょっと悔しい。
13時50分、登山口から4キロの地点に、つぶれたお堂と石碑があらわれた。すぐ真下に滝がシャアシャアと水音を響かせている。たぶんこれが「行者堂」だ。残骸だけがその雰囲気をとどめている。
滝や急流をわきに見ながら、急坂をあえぎながらのぼる。最適体重より10キロも重くなってしまったのだから、しんどいのは当たり前。山に来ると、やせなあかん、と思う。
14時25分、リフトの下に着いた。成就社に行っても仕方ないから、リフト沿いに左に折れ、スキー場のわきで軽く昼食をとった。
【つづく】