高知遍路 四万十へ

2004/5/1

Tシャツ美術館

 潮騒の音と鳥のざわめきで目を覚ます。
 6時10分に宿を出る。上川口の漁港には「ホエールウオッチング乗り場」がある。海の向こうにうっすらとつらなる足摺岬は果てしなく遠い。
 「海の王迎」というたいそうな駅の近くには、「好評分譲中」の住宅地がある。吉野川源流の本川村の住宅団地は坪2万円だったが、ここはいくらだろう。
 デイリーヤマザキでにぎりめしと菓子パンを買う。 「相撲取りみたいやな。朝稽古して、食って、寝る前にしこたま食って」
  浮鞭の海水浴場をすぎ、入野浜の手前で遊歩道に入る。浜辺に厩舎があり、サラブレッドがブルルルと体を震わせている。
「私が乗る馬なんかおばあちゃんばかりやけど、現役の競走馬はええなあ。うらうらぁ!って感じや」とレイザル。
 松林の散歩道。どの木もまだ直径5,6センチ程度。ところどころ間伐した跡がある。苗を育てて植え、松林を復活させようとしているようだ。松の合間から陸にうち寄せる白波がかいまみえる。沖縄かハワイのようだ。この浜は、5−8月に海亀が産卵するという。7時半、浜に出て朝食をとる。昼顔などの砂地の花があちこちに咲いている。
 まもなく、数百枚のTシャツがはためく砂浜に出た。毎年この時期だけ催される「Tシャツ美術館」だ。大波が轟音をたててしぶきをあげ、白いTシャツが青い海と空に映えていた。
 8時になると日射しがきつくなる。「来るぞ! 紫外線!」と叫んで、レイザルはイスラム教のブルカのように、目だけを残してスカーフを顔にまき、眼鏡だけをぎらつかせる。
「新造人間キャシャーンか?」
「機械のバディー(体)や」
「機械のくせによお食うよな」
「燃費が悪いんや」
 広々とした芝生の公園を西へ歩き、砂浜と山をへだてる川沿いを上流に向かう。芝の色に合わせたのか黄緑色のコカコーラの自販機がやけに目立っていた。
 車道と合流して川をわたり、坂道をのぼりつめた展望台付近で、手押し車の男女に出会った。男性は87歳、女性は84歳。おばあさんは石鎚の手ぬぐいを頭にまいていて「77歳までは石鎚にのぼった」という。男性はつい最近まで車を運転していたが、役場から注意されてやめた。このおじいさん、僕らを見ていきなり、「めおとか?」。そんな言葉が今でも生きていたんやなあ。
 9時すぎ、田野浦漁港に着く。「くじら乗り場」という看板はいかしてる。ロデオのように鯨に乗るのだろうか。漁港の端の建物では、おばちゃんらが鯵とカマスの干物をつくっている。
 手押し車を押してついてきたおばあさんが、道の分岐点で「こっちが近道だよ」と声をかけてきた。四万十川を橋でわたるコースだ。
「私ら渡し船で行くんで」というと、
「昔の道だね。私もお四国はまわったよ」。今88歳。17歳のときに約40日かけてまわったという。 「足が悪かったけど、お大師様の御利益があって、よおなった。松山の人は、お四国をまわらんと嫁に行けん言うて、たくさんまわっとった。宿にずらっと並んで寝てなぁ」
 嫁に行く前に広い世界を見てこい、という意味と、一生に一度はゆっくり遊んでおいで、という意味があったのだろう。いい風習だな。

 午前10時、中村市に入った。
「この私がよお歩こうと思ったと思わん?」
「高い靴を買ったからか?」
「(手束)妙絹さんがきっかけや。年取ってから遊ぶには若いころからしこしこ鍛えなあかん。私なんか特に内臓が丈夫だからな」
 甲高い鳥の声をききながら、小高い丘をこえる。時たま蝉の声も聞こえる。まもなく、橋ルートと渡船ルートの分岐点に着いた。「渡船が動いてなかったら困るなあ」と思ったが、住民に尋ねたら「毎日動いてるよ」という。12時の舟には間に合わせるためペースを速める。
 集落を抜けると左手に砂浜があり、駐車場にはサーブボードを載せた車が何十台もとまっている。「双海サーフビーチ」という。「パラグライダーがあったりカヌーがあったりサーフィンがあったりライダーズインがあったり、高知県全体がビーパルみたいや。愛媛とちがって温泉の色香で金を落とさせようというのがないね」
 車道を離れて平野の集落に入る小道を選ぶ。緑が濃くて、原色で、色もにおいも沖縄のよう。
 もうすぐ子供の日というのに鯉のぼりがない。昔の田舎はこの時期は鯉のぼりだらけになっていた。過疎が進んでいるのだろう。 【つづく】

 


まだ幼木が多い松林

 

 


Tシャツ美術館

 

 


手押し車がかわいい

 

 


田野浦の干物づくり

 

 


双海地区。サーファーが多い