トンネルで考える
11時20分、高台にある下田中学から、青緑色の四万十川がみえた。落ち着いた雰囲気の集落を歩き、港をぐるりと半周して、渡船場に着いた。
待合いのための東屋に、おばあさんが1人座っている。 「渡船は12時に出ますけどね、乗り遅れても、(船頭が)家にいますから呼べばいいです」
おばあさんは93歳。26歳のときに「お四国」をまわった。200円ずつ計400円を僕らの手に握らせて「お接待です。昔してもらったことをするだけです」。年金生活のおばあちゃんにとっては安い金じゃないのに「お大師さんにお接待しているんですから」とゆずらない。納め札を渡した。押し頂いて懐にしまった。
「この船は、一番古くからの遍路道ですから、御利益がありますよ」
まもなく、船頭さんがあらわれた。
「車で走っとったら、あんたら見かけて乗せようかと思ったけど、どうせ歩くろ? もう着いたかな、と思ってもどってきたんよ」。人情味あふれる渡船なのだ。
おばあさんは船に乗るのかと思ったら、ちがった。遍路が来るのを待っていたようだ。記念写真をとってサヨナラする。
渡船はかつては個人経営だったが、昭和40年から市営になった。料金は1人100円。水しぶきが顔や腕にプチプチと当たって、気持ちいい。左手は河口だ。10年ほど前にカヌーでくだったときは、台風が近かったため、堤防の上に白波が砕け散っているのが見えた。今日は風はあるが、いたって穏やか。約1キロ。数分で対岸の初崎に着いた。
下田は開けた漁港だが、初崎の渡船場は松の木がはえる岩が美しい、昔ながらの渡船場の雰囲気が残っている。小さな看板に「(利用者は)旗をかかげてください」と書いてある。
10分ほど歩くと四万十川と内陸の沼をへだてる水門がある。周囲は水田だから、高潮時の塩水の逆流を防いでいるのだろう。北方の山際の国道へと一直線に向かう2車線の道路を歩く。国道まで行くとなると1キロくらい遠回りになる。近道がないんかなあと思ったら、左手に遍路道があってホッとした。ウグイスの声が響く田んぼの小道を歩き、沼をわたる。沼の小島には青い鳥居の神社があり、公園のように整備されている。
川沿いをしばらく歩いて国道に出る。13時20分、「足摺37キロ」という標識。本日の宿泊地まで10キロほどだ。
新伊豆田トンネルは1620メートル。歩道は広いが、トラックやダンプの轟音は威圧感がある。はるか向こうからゴゴゴゴと轟音がすると思ったら突風とともに脇を通過し、帽子が吹き飛ばされそうになる。空気が悪いから手ぬぐいで鼻と口を覆う。車が通りすぎるとホッとする。
現代社会を象徴しているように思える。追い立てられ、通りすぎてホッとして、また追い立てられ……。トンネルという狭い息苦しい管理空間は、オーウェルの「1984年」が描いた社会、あるいは現代の日本と共通していないだろうか。よくよく考えたら、東京の大気はこのトンネルよりも汚れているのだ。
25分ほどでトンネルを抜けた。市野々の分岐点で、ちょっと遠回りだが旧道を選ぶ。川べりを下流へ。水は透き通っていて、魚とりや水遊びにぴったりだ。
ずっと小道かと思ったら、91年発行の5万分の1の地図にはない2車線の舗装道路にでた。道路工事のダンプカーがひっきりなしに通る。
下ノ加江川をわたって国道に出る。河口の橋の直前に今夜の宿「安宿(あんじゅく)」があった。(16:15)。
部屋は四畳半。机の上にはグラス2つとポット。冷たい玄米茶がありがたい。靴下をぬいだら、小指のマメが大きな水ぶくれになっている。窓をあけると目の前が山、暗くなると、ゲコゲコゲコとカエルの大合唱。
客が多いから風呂は順番待ちで夕食後になった。
夕食は、カツオの刺身、赤魚の煮付け、なす天ぷらなど。宿のオヤジがとにかくよくしゃべる。
「親指と小指にマメができるのは靴が小さいからです。2センチは大きくないと。○○という本には、2センチ大きい靴にしてドライヤーをもってこいって書いてあったでしょ? 30キロも歩くと足が大きくなるんだから。小指や親指をやられそうになったら、くつひもを先端の2つか3つの穴は結ばないようにしたらいい。やってごらんなさい」云々、大声の演説が10分近くつづいた。
うるせえオヤジだが、彼の言うことにも一理あるかもしれない。明日確かめてみよう。
【つづく】