愛媛遍路・秋 土居-川之江

2004年9月19

 

 2カ月ぶりの遍路再開。朝起きるのが遅く、JR土居駅の近くのスーパーに着いたのは正午になってしまった。雨上がりのためか、蒸し暑い。屏風のように目の前につらなる山には、地底からわき出たような雲が山水画のようにたなびいている。


安藤正楽の碑のわき。山にたれこむ雲

 

明治・大正・昭和が見える

 土居駅前からの旧道を10分ほど歩くと、日露戦争出征兵士の名が刻まれた石碑と、「日露戦勝」の記念碑がたてつづけにあらわれた。国道には「現代」しか見えないけど、旧道には未だに明治や大正、昭和が息づいているのだ。
 歩いていると、いろいろな疑問がわいてくる。例えば民家の軒下に、薄汚れた木材や板材があるのを見て、レイザルが「これ、なんでなん?」と尋ねる。農家ならば畑の柵をつくるとかなんとかあるけど、商家は何に使うんだろう。
 装飾を施した立派な瓦の屋根が目立つ。赤煉瓦の塀に囲まれた家もある。豊かな地域だったのだろうか。
 廃屋や古民家の壁にある古いポスターや看板も面白い。「タンス店」の看板が目立つ。しかも香川の観音寺あたりの店が多い。「婚礼…」というのと並んでいるのを見て、「このへんはハデ婚なのかもしれん」とレイザルが妄想をふくらませる。「日立のラジオ、ミシン」とか「タケダのプラッシー」といった懐かしいパネルもある。廃屋の壁に「連帯保証人」の看板が2枚3枚あり、そのわきには共産党と公明党のポスターがある風景は、現代の貧困を典型的にあらわしているなあと思った。
 家の角に出窓をつくったタバコ屋。今は店を閉じているが、何とも言えない風情ともの悲しさがある。
 12時25分。あれ、見たことある風景だなあ、と思った。日露戦争時に反戦を唱える石碑を建てて弾圧を受けた安藤正楽の石碑と、「月島丸遭難記念碑」が並んでたっている。安藤の子孫にあたるおじさんに以前につれてきてもらったことがあった。
 ツバメが電線の上に、まるで雀のように数十羽も並んでいる。今春生まれたばかりの若鳥もいるはずだ。海を渡るため前の最後の訓練をしているのだろう。
 この近辺は里芋の畑が目立つ。畝と畝の間に水がたまっているところが多い。台風や雨が連続して水がはけず、収穫できないのかもしれない。
 12時45分、赤星駅の近くで、「もう腹ぺこや」とレイザルが言い出し、国道11号沿いのスーパーでちらし寿司と海苔巻きを買った。
 旧道沿いに公民館や駐在所、呉服屋もある。国道ができる前はさぞやにぎわっていたことだろう。
 海を隔てて伊予三島のパルプ工場が見える。煙突から白い煙をもくもくとふきあげている。
 14時10分、寒川駅前を通過、さらに15分後、寒川小学校に着いた。校門を入った左手には二宮金次郎の銅像がある。が、何かへんだ。本をもっていない。しかも中指が折れている。「戦後になって落とし前をつけられたんかなあ」とレイザル。「そういえば、二宮金次郎って何をやった人だったっけ」と尋ねられて、「篤農家だったんちゃうか、ちゃうかなあ」と答えに詰まった。そもそもなぜこれだけ全国に広まったのか。教育勅語との関係はどうなのか、戦後の民主教育との関係はどうなのか。〓知っているようで知らない。
 道端に地蔵が多いのもこの近辺の旧道の特徴だ。なぜか「三界萬霊」と刻まれている。極楽地獄この世、ということかな。
 「従是西西條藩」という標柱をちょくちょく見かける。このへんは、今治藩やら西條藩やらの領地が入り乱れているため、西條藩が19本の領界標石を立てているのだという。
 15時40分、三島駅に到着。町中、なんとも言えない臭いがただよっている。ビールをあおって、16時02分の列車にのって土居に引き返した。きょうの行程は10キロほどだった。
 泊まるのはもったいないからひとまず松山にもどる。

 

【つづく】


金比羅道と遍路道の兼用の標石

 


イモ畑


寒川小の二宮金次郎

 


遠くに伊予三島のパルプ工場が見える