暗やみの底から間の抜けた音が響く。
チャポン、ポコン、チャプン…。
サーっと風が全身を包む。
あれ、磯の香りだ。そうだ。島根県の日本海の小さな集落にいるんだ。
間もなく夜が明けた。窓を開け放つと、岬と岬に挟まれた小さな入り江が広がる。「脱衣場」「シャワーあります」などと記された古ぼけた木造平屋が海岸沿いに軒をつらねる。季節はずれの海水浴場は人の気配さえしない。
浜に出てスケッチブックを取り出す。鉛筆で下絵を描き、水溶性の色鉛筆をといてぬる。
「きょうは新しい画風を開拓すんねん」
レイザルはやけに真剣な顔つきだ。鉛筆のスケッチはうまい。このあとササーッと薄い色をつければできあがるのがいつものやり方だが、今回はちがう。
「エイヤ、ホイヤ」と気合いを入れながら、色をのせた筆をベタッ、ベタッとスケッチブックに押しつけ始めた。
「新しい芸術や」と得意そうだが、5秒後には黙り込み、10秒後にはスケッチブックをパタンと閉じ、
「やめや」
のぞき込もうとすると
「あかん、きょうは失敗や」とふさぎ込む。何とまあ気分の起伏が激しいこと。
僕が色を塗っていると、浜の右手の海の家の方から、野球帽をかぶったおじさんが歩いてきた。日焼けした額に刻まれた皺がいい感じだ。
「こんにちは」と声をかけると、黙って右手をあげ、おもむろに口を開いた。
「絵描きの卵か。ええ趣味や。金かからんし」
「いえ、単なるド素人です」
「いや、ええ趣味だ」
断固とした調子で言い放つと、突堤の先端につないである舟に向かって歩いていった。間もなく、舟に乗り込んだのか姿が消えた。
「ええな、ええな、おじさん、ええ感じやな」。レイザルがはしゃぎだした。【つづく】